常磐道・三陸道紀行 その1

旅行記
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コロナ禍により旅行記は非常に書きづらい。といっても田舎の老義母も心配。
記録として残す。大手を振って旅を堪能できる日が早く来ますように。

夜12時前あたりに横浜を出る。今回は東北道ではなく常磐道から新しい三陸道にて岩手宮古を目指す。
といっても仕事が終わってからの出発なので電池切れは早い(EV車ではない、運転者のこと)
行けるとこまで進んで今日(日付はまたぐ)は早々に車中で寝る予定。翌日うまいものを食おう。

しょっぱなは常磐道関本PAにてバテる。まだ茨城を抜けてないのに衝撃をうける(地図ではあと700mで福島県)。もう寝る。

目が覚めたら出発する。ぼやぼやしてたらいつまでたっても宮古には辿り着かない。関本PAで家からだいたい260km。最終目的地の妻の実家にはあと440kmくらいある。つまり家から実家までは700kmほどあるわけだ。
なんて距離だ、どうなってんだと小一時間くらい問い詰めたいがもちろんそんな時間はない。進む。ほんと毎回生き残りサバイバルだよ。

600*400

朝出発して第一の休憩は鳥の海PA。名前に惹かれて入る。常磐道最後のSA/PA。
鳥の海阿武隈川河口付近の仙台湾を望む汽水湖のようだが、このパーキングエリアからは見えず。
もちろん高速を降りては行かない。新しい施設でトイレくらいしかないがとてもきれい。
もう仙台は目の前だが、さすがにまだ食事には早い。食事は朝飯兼昼飯になるだろう。そして豪華に。

鳥の海PAを出てすぐの亘理(わたり)インターチェンジ。その先は仙台東部道路となり、いくつかの仙台がらみのICを越え、仙台港北インターチェンジより三陸自動車道となって宮古までつながっている。
昔は東北自動車道盛岡花巻にて太平洋側へ山越えしなければならなかったので、いい選択肢が増えた。

ということで三陸道まで進み、そろそろおなかも減ったし疲れたしということでいったん三陸道を降りる。立ち寄ったのは気仙沼だ。まだぎりぎり宮城県。時間は11時くらい、ちょうどいい時間でしょう。
と、ここまで写真1枚撮っていなかったので、ここからだここから。
気仙沼魚港

出発してからやく12時間経っている。ぐっすり寝たからね。
しかしそれにしてもまだ岩手にも入っていないとは。。

なんでもNHKの朝ドラ、「おかえりモネ」のロケ地というかここが題材らしくあちこちでモネ
しかしわれわれ夫婦、見ていないので、まったくわからず。
とりあえず夏木マリさんと2ショットを撮っていただく。ありがとうございます。


さあ飯だ。
いろいろ調べればすごいお店も見つかるのだろうが、だって行き当たりばったりなのだもの。
まだまだ通過点の気仙沼なので気仙沼魚市場のところのカネト水産へ。観光地価格だったが、この絵面では食わねばなるまい。

生ウニは季節がら最後かもしれないけど、さすがおいしかった。
おなかが満ちたら、出店で洋ナシでも土産にかって再出発。

しばらく三陸道に乗らず(乗り損ねた)しばらく下道を行く。
途中「大理石海岸」という気になる地名を見て、寄り道。
震災後の海岸は護岸工事が進み、かつての風景ではなかったようだ。それはこの三陸のいたるところでそうで、しかたのないことだけど風景が変わっていくのは残念だ。
しかしすぐそばに雰囲気のあるよさそうな民宿があった。きっと震災では被害にあわれただろう。落ち着いたらこういうところでのんびりしたいね。

もちろん見える岩礁は大理石。

また国道45号線陸前高田バイパスに戻り北上。
気仙大橋を渡ると高田松原道の駅だ。
陸前高田は広田湾に面し、あの東日本大震災では甚大な被害をだした。
見渡す限り平地なので、かなり広範囲な被害だったろう。


この道の駅高田松原高田松原津波復興祈念公園と併設されている。
東日本大震災津波伝承館があり、津波を追悼し後世に伝える場所にもなっている。
2019年に開設、新しくとてもきれいだ。
そしてその広さが印象的だ。

上の写真は新たに作られた防潮堤の上から。震災前の高田松原はその名の通り7万本の松林の浜辺で昔からの名勝だった。
それは江戸時代に植えられた防潮のための松林であった。実際明治の津波やチリ地震の津波など、なんども陸前高田の町を守ってきた。

しかしあの東日本大震災は大きすぎた。10mを超える津波が7万本の松をなぎ倒し、砂浜の9割がなくなった。陸前高田市で亡くなったかたは1500人を超える。

あれから10年たった。ここは公園として整備され、松も10000本植林された。

以前のような松林になるにはあと50年はかかるという。

そして奇跡の一本松
海側にあった建物、陸前高田ユースホステルによってかろうじて1本だけのこった松。
復興の象徴とされたが、塩のため結局枯死してしまった。
それを1度切り倒し1億5000万円かけてモニュメントとして防腐のコーティングや心棒をいれ再建した。当時は復興もまだまだだったのでそのかかる金額に意見が諤々だったという覚えがある。

しかしこうして見ればやはり後世に伝えるシンボルとなることや、人を集めることができるものなので隣のユースホステルの建物ともども残してよかったんじゃないかと僕は思う。今になってだから言えるのだろうけど。

ぜひ東日本大震災津波伝承館の展示物や映像とともに一度は目で見てほしい場所だ。

さて岩手県には確かに入ったが、目的地は宮古市だ。じつはまだ120kmくらい残っている。なんということだ岩手県。広すぎるぞ岩手県

その2に続く(クリック)

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