ゲージュツとは

つれづれ
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今日は二科展の評議の方と面白い議論をした。何がアートか、誰が芸術家かという。

ある時の二科展での話。
二科は油絵が主だからか、ダビデの像の写真を拡大や縮小で並べ少し着色したという作品を受けとらなかったそうだ。
その評議の方(おばちゃん)はその作品は大変面白い構図で才能を感じたそう。
でも絵ではないと全会一致で却下だったと。全会一致ってことはおばちゃんもNONとしたと。

・それは絵ではないということでまな板に乗らなかっただけで、アートではないとは言っていない。
・二科には合わないということで、作品が劣っているとは言っていない。

という上の2点は僕の好意的な解釈。
しかし本当のところほとんどの評議がアートではないと思ったようで、「これただのコピーだよ」と言ってたらしい。

僕は聞いた「それを飾る人はいないですかねぇ?」
そしたら「いるでしょう。迫力はあったし、いいものを持ってた。会社の正面玄関とかに飾ったらきっと面白いわよ」

俺はそれはアートだと思った。
作家が創作したい衝動によって作られたものが、他者に影響を与え、そしてそれが確かになにかしら残したとき、それはアートじゃんかと。飾りたいとかさ。

その衝動が作品ではなく金銭や自分以外の者の目だけに向かうとき、芸術性はなくなるのではないか。つまり投資とかマネーゲーム。少し経ったら売るんでしょ?

買いたい、手元に置きたいという衝動はアートによるものということかもしれないけど、売りたいというのはどうか。売りたいというのはもう本質は芸術から離れているのではないか。
まぁそうは言っても売れなきゃ芸術家もやってけないし、作者がどうであろうと受け取る側がどう感じるかでアートに成得るのだろうけど。

まとめると、見る聴く触るなどの五感によって誰かに響いた作品はもうアートだ。
そこには何らかの計算や因習やフォーマット、それに選考はいらない。誰かにとってどうであるか、だ。

またアートの成り立ちに好きか嫌いかなんてもちろん関係ない。そのアートが好きか嫌いか、それはアートありきの話。

そしてある衝動によって作品が生まれ、そしてその作品によって他者の価値観に影響を与えてしまうその人は芸術家だ。
具体的には、
・作品を作るべくして作る
・いつまでも理想を追う
・自己にベクトルが向く
・他者に感動を与える
・それしか自己表現を持たない。それに始まりそれに終われる人だ

こんなところか。
これを全てクリアしなければ、芸術家気取りとか芸術家肌とかだろう。
いいんだすべからく圧倒的多数は芸術家気取り、僕もあなたも君もやつらも。それが人生を楽しくしているといえる。

最後に芥川龍之介より

芸術家は何よりも作品の完成を期せねばならぬ。さもなければ、芸術に奉仕する事が無意味になつてしまふだらう。たとひ人道的感激にしても、それだけを求めるなら、単に説教を聞く事からも得られる筈だ。芸術に奉仕する以上、僕等の作品の与へるものは、何よりもまづ芸術的感激でなければならぬ。それには唯僕等が作品の完成を期するより外に途はないのだ。

芸術の為の芸術は、一歩を転ずれば芸術遊戯説に堕ちる。
人生の為の芸術は、一歩を転ずれば芸術功利説に堕ちる

芸術は表現に始つて表現に終る。画を描かない画家、詩を作らない詩人、などと云ふ言葉は、比喩として以外には何等の意味もない言葉だ。それは白くない白墨と云ふよりも、もつと愚な言葉と思はなければならぬ。

#つれづれ

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